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三帰依文

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ahoudori 2010-10-18 6:56
三帰依文の最初の部分

人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、今すでに聞く。
この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん。

(注:宗派によって多少言葉は異なります)

をお釈迦様のお言葉だと思っている人もいます。

確かに「人身受け難し」「仏法聞き難し」は多くの経典に説かれていますので「間違い」とすると言い過ぎでしょうが、この言葉自体は宋の禅僧であった死心悟新師の語録にある
人身難得 佛法難聞 此身不向今生度 更向何生度此身
という文が元になっています。
http://goo.gl/ARWW
(中華電子仏典協會HP)

この言葉と、『華厳経』のお言葉や「開経偈」(これも禅宗の言葉)を組み合わせて、大内青巒師が作ったと言われるのが「三帰依文」だそうです。

或る阿呆の一日

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ahoudori 2010-10-16 8:46
今日の中土井さんのチョイスと考えるヒントは私にぴったりだったので、ついつい拝借。
改行だけはちょっと変更させてもらいました。

「考えるヒント・今日の言霊」
(講読はここから→http://www.mag2.com/m/0000102022.html)
(転載はしないで下さいね)

■□─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━□■
【考えるヒント・今日の言霊】2010年10月16日(土)
VOL.2440   作者:中土井鉄信
■□─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━□■
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■ 今日の言霊:芥川 龍之介
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阿呆はいつも、自分以外のものを阿呆だと信じている。
+─────────────────────────────────+
■ 考えるヒント
+─────────────────────────────────+
◇アホと言われる人がアホなのは、自分のことを第三者的な目で見られないからだ。
そういうと、アホと言われる人から直ぐに反論されるかもしれない。
「いやいや私は、自分のことをよくわかっていますよ」と。

◇そうなのだ。アホと言われる人に、アホを自覚させるのは至難の業なのだ。
アホと言われる人は、全ての吟味を自分の視点でしかできないのだ。
これが、第三者的な目で見られないということだ。
しかし、アホと言われる人は、それに気が付かない。

◇私たちが、自分の愚かさ加減を知っているのは、自分を自分とは違う視点で眺められるからだ。
それを忘れないようにしたい。そうしなければ、私たちもアホと言われる人の仲間入りをしてしまう。アホである自覚を私たちは、忘れないことだ。

SNS参加者の皆様へ

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ahoudori 2010-9-29 10:19
「考えるヒント・今日の言霊」のバックナンバーより
(講読はここから→http://www.mag2.com/m/0000102022.html
(転載はしないで下さいね)
有名人の名言・格言だけでなく、作者・中土井氏の経験は味わう価値が十分あると思います。

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     ★☆★☆ 考えるヒント・今日の言霊 ☆★☆★
   2009年8月11日(火)VOL.2080 作者中土井鉄信
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■今日の言霊:マーティン・ルーサー・キング
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最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。
沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。

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■考えるヒント
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◇今日の言霊は、私たちにとっては、非常に重たいものだ。私たちは、今日の言霊で言う「善人の沈黙」を日常的に繰り返しているのではないだろうか。
◇電車の中で、街の中で、会社の中で、学校の中で、家の近所で、私たちは、見て見ぬ振りをして何かをやり過ごしている。そういう沈黙を積み重ねて、今という時代を私たちは、築き上げてきたのだ。
◇自分に害の及ばないことに関しては、私たちは、利己主義的にトラブルを避けて見て見ぬ振りを決め込んできたが、結局は、自分の世界の中で起こるすべてのことは、遅かれ早かれ、自分の身に降りかかってくるのだ。
◇だから、他人のトラブルについても、沈黙しないことだ。利他主義の観点から行動することで、私たちは、利己主義が貫徹できるのだ。
(以下略)

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     ★☆★☆ 考えるヒント・今日の言霊 ☆★☆★
   2009年9月14日(月)VOL.2109 作者中土井鉄信
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■今日の言霊:ホメロス
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愚か者は、事が起きてはじめて悟る。
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■考えるヒント
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◇今日の言霊は、私たち凡人には耳の痛いものだ。私たち凡人は、本当に何かが起こった後に自分のこととして実感する。それまでは何かが起こるかもしれないと思ってはいるのだが、他人事のように考えてしまっていて、あまり真剣に起こった後のことを考えていないものだ。だから、起こった後にてんてこ舞いになってしまうのだ。
◇それに対して、賢明な人は、事が起こる前から自分事として考えている。だから、万が一、何かが起こっても、慌てずに対処が出来るし、自分の考えていたこととは違うことが起こっても、それなりに対処ができるのだ。
◇賢明な人は、事が起こる前から、起こった後のことまで考えているものなのだ。
◇私たちは、自分事として何事も考えるようにしたいものだ。たとえ、今は自分のこととは関係ないことでも、そういう訓練をしておくことだ。いつ自分事として事が起こるか分からないのだから。

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     ★☆★☆ 考えるヒント・今日の言霊 ☆★☆★
   2009年10月9日(金)VOL.2131 作者中土井鉄信
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■今日の言霊:フランシス・ベーコン
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人間は、ある意見を、そうだと思い込むと、すべての事がらをその意見にあわせ、その意見が正当であると主張するのに、都合がいいように寄せ集めるものだ。
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■考えるヒント
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◇今日の言霊は、人間の本質的な性向を言い当てている。昔の人はよくいったものだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とか「贔屓の引き倒し」とか。
◇人間は、自分の都合の良いように解釈して、現実を創造していくものなのだ。だから、私たちは、何が客観的な事実なのかをしっかり見定めることが求められるのだ。
◇私たちは、今日の言霊の指摘のように、自分に都合が良いように現実を受け入れてしまいがちだから、慌てずに、急がずに吟味しながら、物事を受け止めることだ。そうだ!そうだ!その通りだ!と言わんばかりの勢いで現実を判断しないことだ。
◇順調な時ほど、慎重になれ!というのは、そういうことだ。順調であればあるほど、自分の都合の良いように判断してしまいがちだ。そういう時こそ、一呼吸おいて判断していこう。今日の言霊は、そう言っているのだ。


ここからは近藤の見解

 TS会を非難をする際、TS会が100%悪いのだと思うこともある意味必要ですが、冷静に自分はどうであったかを考えることも大切だと思います。
 少なくともTS会在籍時には「TS会は素晴らしい」と思っていたのですから、その時の自分の思考・行動様式を反省した方がいいと思います。

 たとえば「会長が言うこと」や「会の活動方針」が、以前と今と変化していることについて
1.全く気がつかない。
2.気がついても「深い御心」と自分の中でもみ消してしまう。
3.気がついて「おかしいな」と思っても誰にも聞かず「まあいいや」と流す。
4.気がついて「おかしいな」と思っても講師に聞かず、会員同士で「おかしいね」と言うにとどまる。
 など、私も含めどこかで思考を停止していたのだと思います。

 特にTS会退会者の方は、ある程度の冷却期間を経た後に振り返って見られることが大事なのではないでしょうか。
 人間は同じ失敗を繰り返すものです。
 TS会時代の自分の何がまずかったのか、きちんと把握することが間違いを繰り返さないために必要です。

 TS会の間違いはいろいろありますが、それは会長や指導部だけの問題ではなく、“放置し”“良しとし”“自分のことではないから関係ないと無視し”て、現状把握に努めなかった私たち自身にもあることを忘れてはならないと思います。

 特にTS会の大きな問題の一つである知識帰命について、皆さん一人一人がよく理解されることを望んでおります。

トピック:知識帰命について考える
http://21st.hongwan.net/modules/d3forum/index.php?topic_id=107
↓これが法論に応じない言い訳ね。

顕正新聞 平成22年9月15日号「仏眼」

「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬよう気をつけるがいい」。哲学者のニーチェは言った。敵対者の醜い中傷に、同じく中傷で応じれば、おのずと自分も醜くなる。彼はきづいていたのだろう

▼七高僧の一人龍樹菩薩は、インド中にはびこる邪教を、徹底摧破されたので有名だ。“弥陀の本願を伝えずして生きる意味なし”の大自覚から、邪教徒たちの汚い罵りには耳も貸さず、ひらすら真実開顕に専心された。たまりかねた彼らに惨殺されるほど、龍樹菩薩は仏弟子の使命を全うされたのである

▼他人の悪口、自慢話が大好きな人間ばかりなのは、いつの時代も変わらない。そんな口さがない者たちのそらごと、たわごとに応ずる者は、自己の不実をさらけ出すようなものだ

▼“火の雨も 親鸞学徒 受けて立つ”。非難中傷の嵐の中も、ひたすら聖人のお言葉を明示して、世の迷妄を破り、大乗無上の法(弥陀の本願)を開顕するばかりである。聖使命に全力尽くす人は、おのずと心ある人々を引き付けるであろう。(L)


プ━━━( ゚,_・・゚)━━━ッ、文章になってないですね。

まず、意味が分からないですね。支離滅裂です。

細かいことを言いますと……
こんな短い文章の中に「おのずと」が2回、「ひたすら」が2回ありますね。
それに括弧の外に句読点つけて何してるんでしょう?

電子メールやブログの記事ならある程度の間違いがあってもいいですけど、機関紙なんですから、もっとしっかりしなくっちゃ。
言葉の教室なんてやってないで、小学校からやり直した方がいいと思います。
「君達は何もわかっていないのだ」
とよく言う人がいます。
 通常こう聞くと、そう言った本人は
「私はわかっている」
または「私は少しはわかっている」
または「私は全てわかっている」
ということを暗に示しているものと受け取ります。
 この場合、何について「わかっている」のか「わかっていない」のかが問題なのですが、「君達は何もわかっていないのだ」と言われると、字(言葉)の通り「何もわかっていない」と思ってしまうようです。
 しかし、よく考えると、「君達は何もわかっていない」と言っている人は、実は、法律のことも医学のことも建築のことも教育のことも経営のことも料理のことも漢字の書き順も「何もわかっていない」のです。そして「君達は何もわかっていない」と言われている人達の方が、「わかっている」ことが多いのです。

 では「君達は何もわかっていないのだ」という言葉は間違いなのかというと、そうではないのです。これが仏教のことについて言っているという前提で話をしているならば、正しいのです。
 しかし、一番最初に戻りまして、「君達は何もわかっていないのだ」と言った本人は、
「わかっている」のか
または「少しはわかっている」のか
または「全てわかっている」のか
といいますと、実は、やはり「何もわかっていない」のです。

 では阿弥陀仏に救われたと人とそうでない人と同じなのかと言いますと、一つだけ違うのです。
それが
「ただ念仏(南無阿弥陀仏)のみぞまこと」
なのです。

 たぶん「君達は何もわかっていないのだ」という言葉は、「迷情の四句は四句皆非なり 悟情の四句は四句皆是なり」という有名な仏教の言葉を現代風にアレンジして使っているのではないかと思います。
 この「迷情四句四句皆非 悟情四句四句皆是」という言葉は慈恩大師基(基というのが名前です)の書いた、『大乗法苑義林章』という書物に出ています。慈恩大師基は西遊記でも有名な玄奘三蔵の一番弟子で、法相宗を開いた人です。法相宗というのは簡単にいえば、唯識学を勉強する宗派です。
 もちろん「迷情四句四句皆非 悟情四句四句皆是」が、間違いだと言っているのではありません。これは正しいです。この場合「迷」「悟」というのは「凡夫」「仏さま」ということです。四句というのは自・他・共・離(無因)ということですが、私は専門ではありませんので、説明は省きます。
 この言葉は(特に「迷情四句四句皆非」は)、浄土真宗の学者の人達も使っていますので、それはそれでいいです。

 しかし、「迷情四句四句皆非」を「君達は何もわかっていないのだ」と言い換えて、まるで「水戸黄門の印篭」や「遠山の金さんの桜吹雪」や「暴れん坊将軍の顔のアップ」のように、相手を黙らせるために使ってはいけないと思います。

 ではどういうべきなのかといいますと、あくまでも一例ですが、
「君達は何もわかっていないのだ。そう言っている私も何もわかっていないのだ。ただ念仏だけがまことだと知らされるではないか」
と言ってもらいたいと思います。

 親鸞聖人のお言葉を聞かせていただきましょう。

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(歎異抄第2章)

「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄後序)

『よすみ法語』より 利井鮮妙和上の言葉

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ahoudori 2010-9-8 1:07
〔本の説明〕
『よすみ法語』は行信教校・利井常見寺の利井明郎師、鮮妙師、興隆師の三代の法語が書かれてある小冊子です。
発行者は故利井明弘師(行信教校前々校長)、出版社は百華苑です。
四代集の『よすみ法語』もあるようですが、私が持っているのは三代法語の方です。
ISBNコードはありません。

六ヶ敷かったら尚出来ぬ
世の人は、当流はあまりやすすぎて、安心が出来ぬゆえ、気になるなどと申されますが、六ヶ敷かったらば、尚出来ぬ。
〔語句の説明〕
六ヶ敷かったら=難しかったら
やすすぎて=易しすぎて、簡単すぎて

一大事の自覚
或る時、一同行が訪ねて来て言うことには、
「私は十二年間後生に大事が掛からないので迷っております。初め六年の間は月に六回十里ほどある、ある寺に参って法義を聴聞しましたが、この寺の住職は私にまだ後生が掛かっておらないと申されます。私はどうも後生の大事が分りませんので、其後はその御寺へ参ることを止め、家の商業は妻に任せて、自分は宿を替えて日日法義ばかりに掛かり果てていることここに六年になりますが、いまだに後生に大事が掛からないのはどうした事でありましょうか」
 拙老(わし)は問うた。
「後生に大事を掛けるとは、どの位まで大事が知られたのを言うのか」
 同行が答えて言うことには、
「明日をも知らぬ命をかかえ乍ら、その事が分りません。自分の犯罪が警察に知れて、明日はいよいよ拘引されるというときにはじっとしていられるものではありません。明日をも知れぬ命をかかえ、命が終われば地獄に堕在しなければならないのに、日夜安心して寝食をしているのは、真実に後生の一大事が知られないからであると思います」
 そこで拙老は、
「後生の一大事がどれほどまで知られたならばよいのか。夜寝られず、食事が進まないようになったのが、後生の大事が知られたのであると言うのか。それは大きな誤りである。そんなことはとても出来るものではないのがお互の身の上だよ、『人間はただ五十年乃至百年のあいだのたのしみぞかし、それも老少不定と聞く時は、まことに以てたのみすくなし』(「御文章」)と知って永綱張らず、今は好い時、ここをとりはずしては一大事と知られたのが、即ち後生の一大事の知られたので、そう心得て聴聞すればそれでよろしい」
と申したらその同行は、
「永々一大事を尋ねておりましたが、これですっかり迷いを覚ましてもらいました」と言って、喜んで去ったことがある。

左文字と右文字
拙老のつたない歌に、
「左文字 おせば右文字 助くるの
          外に助かる こころやはある」
というのがある。
印形の左文字を紙に押せば、右文字が現れる。
この右文字と左文字とは別物ではない。
左文字のままが右文字であり、右文字の外に左文字はない。
如来様の“助くる左文字”を、衆生の心に押せば“助かると云う右文字”があらわれる。
これが、仏の助くると云う、阿弥陀仏と、衆生が助かると云う、南無と、機法一体であります。

一蓮院秀存師の言葉

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ahoudori 2010-9-7 20:32
わが心を明らかにせんと思う心も弥陀をたのまぬのである。
気安くなって助けたまわんと思うも弥陀をたのまぬのである。
今度はわが胸がさっぱりしたと思うて、喜んで当てにするのも弥陀をたのまぬのである。
まかせた後世をとりもどすも弥陀をたのまぬのである。
とりかえすくらいだから、まことのことではないと思うて、まことのことになりたいと、わが心をながく世話するのは、なおなお方角違いへおもむくのである。
これらの心は、引き破り、引き破り、この引き破りかねた心も引き破り、やれ引き破ったぞとなづむ心も引き破り、この方から引き破ろうと思うも自力である。
本願名号のいわれを思い、そのいわれより引き破らせて頂くべきものである。

弥陀をたのむとは、向きをかえるなり。
「華山に向いて花を看、明月に向いて明月を観る」
というごとく、
機(自分)の方にむかわずして、
必ずたすけてやろうとある大悲にむかう一念が、
「後生助けたまへと弥陀をたのむ」こころなり。

もうちとばかり気がかりと思うは又弥陀をたのむ所なり。
落ちつかれぬ落ちつかれぬと云うも
元より弥陀をたのむ所なり。
落ちつかれぬによりて落ちつかうと張り込むも
弥陀をたのむ所なり。
落ちついたか落ちつかぬかとためして見るも
弥陀をたのむ所なり。
是れは我が心を眺めてたのむ方角違いのたのみなり。
されば弥陀をたのむと云うは、我が心を眺めず、
本願の月を真向きに見て我が心を眺めぬ処なり。

深川倫雄和上の言葉

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ahoudori 2010-9-7 10:43
『報謝無尽』ー『お三部経』の極意 より
 そして、流れ流れて、ご開山の所にきて、悪人正機。どこを突いても宗祖に於ては、悪人正機。それが端的にあらわれているのが、
  善人なおもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや
 であります。十九願、二十願は善人のために添えた願であって、十八願こそが悪人を救う願である。まったく弱肉強食、善を可とし、悪を不可とするという、この地球上を何億年も流れてきた思想とは、まったく違ったご法義が、今から数えて2500年前に、歴史的に言うても、科学史的に言いましても説かれていたということ。このことは不可解であった。だから人々は、結構なる、善なる極楽に往くとして、そのためには、弥陀に善なる心で帰依をして、善なる極楽に往くというお経だと理解したのである。ところが宗祖に至ってみたら、そうではなかった。スッテンテンの地獄ゆきを救うというものであったということに、気が付かれたわけ。そんなに時間がかかった。
 そして今の人達も
 「真宗は何ちゅうことを言う。悪いやつが救われる。どういうことじゃ」
 堂々と胸張って言いますよ。いう人々の心の中に巣くうておるのは、弱肉強食の思想でしかない。

『佛力を談ず』より 100頁
 最近我々はカリキュラムを造ると、きっと宗教→仏教→真宗の次第で作りますよ。なぜ宗教から始めるのか。
 「宗教はやめて、すぐに浄土真宗で行きましょう」
というと、いややっぱり宗教の中でも仏教、仏教の中でも真宗が秀れておるというのをいわなければいけないという。結局、他をけなす。破邪をやろうというのです。教育の頭が消えない。
 最初から十八願でいこう。そういうことです。浄土真宗は御本願の宗教です。御本願は阿弥陀さまであって、阿弥陀さまは我々を教育不可能な者だと決められたのです。その上にたっていますから、そのまま救うわけです。そのまま救うのに教育で取りかかるから間違いますね。
 極端ないい方をしますと、御本願の御法義に入る道はありません。そんないい方をすると吃驚します。長年聴聞して、だんだんと入っていくと思っています。
(中略)
 御本願の御法義は次第次第に入っていく道であるとすると、私は浄土真宗が半分解りましたとなる。
 半分解らない浄土真宗ってあるのでしょうか。残りのある浄土真宗ってありません。
(中略)
 それで、我々は浄土真宗の御法義へ入っていく道があると思ったらいけません。浄土真宗は向こうから来るのです。浄土真宗は他力回向の御法義で、全く向こうから来るのです。
(中略)
 ある町へ行くと、お城があって大変高い石垣がある。お城へ登って外を見て、
 「ああ、いい景色」
といえばそれでよろしい。下へ行ってから石垣を見て、
 「まあ高い石垣。よく組んだもの」
と、暇があるから、この石垣の組み方を見てみようではないか。それがお聴聞。お聖教の勉強。上に立って、いい景色を眺めさえすればよろしい。だけども、暇があるから、よくもこんな石垣を組んだものだとその石垣の組み方を調べてみては、
 「ようこそ、ようこそ」
というわけです。調べなくとも、景色に変わりはない。石垣がどう積んであるかと研究しようがしまいが、石垣の上からの景色に変わりはさらさらない。ないけれども、石垣の研究をしてみればみるほど、
 「ようこそ、ようこそ」
と御恩が知らされる。
 決して信心になる聴聞、信心になる勉強はありません。
 「必ず救う」
という親さまを、我々としては告げていくだけです。
 暇があれば、その親さまの救いぶりの行き届いた有様を、ああでもない、こうでもないというのがお説教でありまして、聖教量でいこうということです。

『佛力を談ず』―『本典』大綱講話 より 117頁
 阿弥陀さまの御法義は一つしかありません。他力回向、向こうから来るのです。
 「二階に上がるには、階段がなければならんじゃないか」
御当流は一階にじっとしてたら二階が降りてきたという話。
 「そんな二階がどこにあるか」
いや、あなたの持ち出した二階へかけ上がる階段の譬でいうならばです。変な譬を持ち出すからですよ。

『佛力を談ず』より 120頁
三、法然上人と『本典』
 宗祖は、法然上人の直弟である。法然上人から沢山の引文があって然るべきである。宗祖における法然上人の言及を見ることにする。

1.『行巻』七祖連引の最後に『選択集』を引用。
 イ、巻頭の標挙
 ロ、巻末に近い三選の文

2.『化巻』末 いわゆる後序
 ここには法然上人の恩徳を明示するために、自分について明確に述べられる部分がある。しかし、教義の明示はない。わずかに「雑行を棄てて本願に帰す」というだけである。

3.『正信偈』源空章は、上人の徳をたたえ、教義としては還来生死等と信疑決判の義を出す。『文類偈』も相似る。

4.『高僧和讃』源空讃は、20首にわたる上人の徳の讃嘆であって、第11首、第12首に信疑決判を和讃せられる。

5.『末灯鈔』第6通・第19通・第20通は法然上人、または上人の名を出されるが、教義についてではない。また、「と聞きて候」としばしばいう。

6.『銘文』源空章には『選択集』三選文と、信疑決判文を釈される。

以上をまとめると

イ、宗祖が引用されたのは、標挙と三選文だけである。『選択集』の引用が本典を埋め尽くす程であって、宗祖は上人を承けたといえる。若しくは宗祖は上人の教学を無視しようとするのであろうか。『本典』後序は、むしろ法然上人の親認の厚さを語るのである。法然上人をよく承けた宗祖を示さるる。

ロ、逆に宗祖が法然上人引用を殆んどしないということは、法然上人の全てを承けるが故に、何処かのみを特に示すことを避けられたものであるとした方が実に近い。『正信偈』に「真宗の教証を興し」たのは法然上人であるというのは、宗祖において本当なのである。

ハ、『本典』は『選択集』の組替えである。『本典』は組替えた『選択集』である。それは、宗祖の壮大な御報恩である。

 ですから、『本典』を窺うにつきましては、そのことを考えておかねばなりません。『選択集』の引用が少ないからといって、『本典』が『選択集』を無視されたと考えてはなりません。だから、むしろ私どもは、『本典』を学ぶにつけて、『本典』と同じくらいのエネルギーを持って『選択集』を学ぶべきではないかと思います。そういうのが、法然上人と本典の関係ということであります。

『如来をきく』より 191頁
 入門して間もなく恩師法然上人と別れなくてはならなくなりました。三十五歳ですからね、足かけ七年であります。その間は、温容に接し、声咳に接し、ことに寵愛を承けられた。お尋ねもしただろうと思いますよ。で、その中でね、どういうことを言われたか。沢山言われたにちがいないが、「このお念仏の御法義というものは、愚者向けの御法義だからなぁ。バカになって行かねばならんぞ」ということをおっしゃったにちがいないわけです。
 私ども、皆さんも賢いですよ、賢いちゃぁどういうことかといいますと、むかし、大分以前に、飛行機のもくせい号というのが三原山に衝突して、大勢死にました中に、大宅壮一という人がおりまして、死にましたなぁ。評論家、あの人は面白い人でありましたが、戦後「一億総懺悔」という言葉を発明した。それから死ぬ前位になりましてから「一億総評論家」という言葉を発明しました。で、私どもは、勉強しますとね、勉強すると評論をやるようになります。評論をやる。で、評論に対して何があるかというと、実行があるわけですね。
 絵描きがいてですよ、絵描きさんがいて、絵を描いているのは、絵を描くという実践をしとるわけです。ところが一方に、絵画評論家ちゅうのがおる。絵を描かせれば何も描ききらんのだ、この人は。そして絵の評論は、しきりにやって、金を儲けておるという人がおりましょう。そのように評論と実行・実践、というのがあるわけで、このことが大切なんですね。
 そのことを法然様がおっしゃったにちがいないわけです。そのときはまだ「親鸞」とは名のりませんから、親鸞と呼びかけられたかけではないけれども、我々は御開山のお名前を親鸞というお名前で専門に覚えておりますから、その名で言うなれば、
「これこれ親鸞よ、お念仏はな、理屈を言うのじゃないぞ、自分がやることだよ。しかもなぁ、お念仏は、阿弥陀様の御法義は、愚か者の為の御法義として出来ておるんだから、お前も愚か者のところから踏み出してはならないぞ。」
といわれたにちがいないわけであります。
 そのよう、実践と評論ということがある。「評論」という言葉は、日頃使いつけておりませんから、ほかの言葉で言えば、「見物」でもよろしい。「解説」でもよろしい。ところが、「実践」ということはね、実行ということは何も言わないというのが普通なんです。
 親孝行ということが、世の中にある。子が親に孝行するのだから、親孝行というのは子供向けの言葉ですね。「親孝行」だからね。親には愛情ちゅうのがある。子供は、「親孝行」。ところが、親孝行という言葉は、見物の言葉でありまして、親孝行をやる時の言葉ではありませんね。親孝行をやってござるお方は、親孝行という字を知らんでもいいわけです。「お父さんが大変だ、お母さんが大変だ」と、親孝行を実践しているお方の心持ちの中には、父と母が存在しておるだけで、「私」も「孝行」も存在しないわけです。そうでしょう。それが実行ということです。ところが公民館の先生や学校の校長先生が生徒に向かって
「親孝行は大切です」
と言う時には、これは見物の言葉です。横からながめ見た見物で、親と子がおって、しかも今そこに学校の教師に生徒がいますというと、生徒に向かって
「親孝行せーや」
と言う。それが、見物の理屈であります。
「いらんこと言う暇があったら、校長さん、自分がしろ」
と言いたくなる。
 そこで、阿弥陀様が私どもをお助け下さるというのも、そうすると、阿弥陀様が衆生を救うというありさまを、我々が見物するのならば、それはウソだということですね。実践ではないということです。念仏の実践というのは、阿弥陀様が私を救うと私に呼び掛けて下さるから、阿弥陀様の真正面に立って、阿弥陀様の仰せをうけたまわって行くということであります。そうするとね、阿弥陀様の話になってくるわけです。

『如来をきく』より 280頁
「よし、これで行こう。第十八」
その時は、第十八番目に並べるつもりがあったかどうか知らんけれども、第十八願・根本の御本意は、
「わしが南無阿弥陀仏と成って称えられて救うぞよ」
というのが、法蔵菩薩の五劫思惟。
喩え話をつくりましたんや、私は。今頃はね、シャレとるからこうやると(コックを回すと)パッと火が付くけど、昔は七厘ちゅうのがありましたろうが、ねぇ。七厘でも何でも火をおこすためにねぇ消し壷っちゅうのがありましてな、もうずっと昔のことや。黒いのがね、そして、たきおきを、カタカタとして蓋しよった。それで、堅炭がつきにくいから、昔は新聞か木の枝か、七厘の下へ置いて、それからふた取って……。ありゃぁ、どんなベッピンさんでも、あれは全部手掴みでしたね。どうせ汚れとるから、ついでに堅炭もにぎって入れて、それから新聞を細長う巻いて、マッチで火を付けて、下の戸を開けて、パタパタパタパタとしたらモクモクモクモクと、ねぇ。あれ消し炭ちゅうのは、火がつきやすい。
 ある所男がねぇ、消し炭を七厘に山程入れて、道端であおいでおりました。大勢の男達が通りかかりまして、
「お前はなにしとるんや」
「いや、この消し炭をおこそうと思うて、さきおとといから、晩も寝ずにあおぎますけど、おこりませんのや」
 それで、みながこう見たら、火種がない。
「バカか、お前は。火種がないじゃないか。消し炭がなんぼおこりやすいというても、火種もないのを何年あおいでも、火になるものか、おこるものか」
と言うて、バカじゃバカじゃと去っていったが、十方三世の諸仏、ここに一仏あり、阿弥陀と名づけたてまつる、火種の無い衆生を火にして、仏の火にして燃やすには、どうしたらよかろうかと、五劫があいだ考えた根本の願は、
「わしが火種になって飛び込んで、称えられ口からも燃え出して行こうやぁ」
ちゅうのが、南無阿弥陀仏だ。
「それでええ、よしそれで行こう。これならねぇ、説教中に寝るのも助かる、みんな助かる。本当か、落ちはないか、落ちがあれば立派な仏様じゃぁないぞ」というので五劫があいだかかったんだ。
「あっ、そうだ。なんぼ諸仏をつこうて、砂の数ほどの諸仏をつこうて、『どこに居ろうとも、咨嗟称我名と南無阿弥陀仏のおいわれ、お前のとこにもう来てんだから、他人事じゃぁないんだから、お前が死ぬんだ、一緒に死ぬんだ、つれて行くぞとお前のところに来ておるんだぞ、万善万徳・恒沙の功徳がとどいておるんだぞ』と言うて聞かしても、『そんなアホな、何もせんで助かるちゅう理屈があるか、努力の彼方に上達があるじゃぁないか』と言うて、第十八願を、このわしの本意の願いを聞きとどけずに、逃げて行くのがおれば、私のこの名号本願の願いは満たされない。すなわち、欠けめのあるお慈悲の仏となる」
「そりゃぁ、それには言うて聞かせる」
「言うて聞かせる。『自力無功なんだ、お前がやったってつまらんのだ』と言うて聞かせる。が、しかし、なんぼ言うて聞かしても、『えぇそんなアホな、ただ救われるそんなアホなことがるか』ちゅうて、この本願の世界から逃げて行くものがおるとすれば、私は摂取不捨の仏ではないわけだ」
「よし、仕方がないから、泣く泣く、お前もそのままでよろしい、自力修行がしたければ、自力修行のお前も捨てはせんぞ」
と、第十九の願を添えられたんだ。その同じ考えで、もうひとつ二十願も添えられたんだ。
かへすがへす当山へなにのこゝろえもなきひときたりて、予に対面して手をあはせおがめることもてのほかなげきおもふところなり。さらにもてたふときすがたもなし、たゞ朝夕はいたづらに、ね・ふせるばかりにて、不法懈怠にして不浄きはまりなく、しわらくさき身にてありけるををがみぬること、真実々々かたはらいたき風情なり。あさましあさまし。
(帖外御文 第31通 文明6年[1474年]1月20日)

 蓮如上人に対して手を合わせて拝んだ人をごらんになって、「もってのほか、嘆き思うところなり」「真実々々かたはらいたき風情なり。あさましあさまし」と仰っています。
「さらにもって尊き姿もなし、たゞ朝夕はいたずらに、寝・伏せるばかりにて、不法懈怠にして不浄きわまりなく、しばらくさき身にてありける」とは蓮如上人が年をとられ(60歳位)、往生も近い身である御自身のことを仰っているものです。
(参照:御文章1帖目第6通「睡眠章」が文明5年)
 これが本願寺教団を日本最大にされた蓮如上人の「知識」のあり方に対する考えだったのです。

浅原才市翁の歌

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執筆 : 
ahoudori 2010-9-7 6:34
島根県大田市には世界遺産の「石見銀山遺跡とその文化的景観」がありますが、浄土真宗にとりましては、温泉津町小浜の浅原才市翁が有名です。
というわけで、浅原才市翁の歌をいくつか・・・

○せきしゅ こばまは よいところ
 ちしきにあわせて 弥陀をきく
 なむあみだぶの もんにいらせて

○じゃけんなり あさましなり 鬼なり
 これがさいちのこころなり
 あさまし あさまし あさまし

○あさましの じゃけんのつのが
 はえたまんまで おやにとられて
 なむあみだぶつ なむあみだぶつ

○あさましのもうねんは つねのならいなり
 瞋恚なり 愚痴なり 貪欲なり 邪見なり
 これがさいちのこころなり
 あさまし あさまし あさまし

○あさましや さいち こころの火の中に
 大悲のおやは 寝ずのばん
 もえる機を ひきとりなさる
 おやのお慈悲で

○罪はわたさぬ よろこびのたね

○十八願があらわれて
 なむあみだぶの声がする
 これを聞く人まれな人
 疑いもって聞くからよ
 疑いやめて聞きなされ
 六字の月がさしますぞ
 機の水に月がさしこむ
 なむあみだぶの影がうつろう

○ありがたい末代無智には橋がない
 十八願の橋かけて
 なむあみだぶにだかれわたるぞ
 御恩うれしやなむあみだぶつ

○十八願はじきの法
 十九二十はじきの前なり
 (※これは三願真仮のことわりですね)

○胸にさかせた信の花
 弥陀にとられて今ははや
 信心らしいものはさらになし
 自力というても苦にゃならぬ
 他力というてもわかりゃせぬ
 親が知っていれば楽なものよ

○ナンマンダブツにうたがいとられて
 才市うたがいどこにいった
 六字の中でごおんよろこぶ

○忘れて暮らす私に
 ナモアミダブツが先に出て
 思い出すときは
 いつでもあとよ
 わたしゃ つまらん あとばかり
 わたしの心が先ならだめよ
 親の慈悲が先にある
 親の慈悲が先ばかり
 わたしの返事はあとばかり

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